先日、今更だけどアマゾンプライムで「イリュージョニスト」というアニメ映画を観た。ある手品師の晩年の物語で、イギリスの風景がとても美しく描かれていて一見の価値ありなのだが、ストーリーは切なく、フリーランス(私のような)のなれの果てを見るようで身につまされた。鞄一つと手品用のウサギを連れて旅をする主人公。うらびれた劇場やバーの片隅で手品をし、わずかなお金をもらってまた次の街へ。途中、いろいろあるのだけどそれは割愛し、印象に残っているのはラストシーンだ。

手品の道具一式を古道具屋に売って手放し、うさぎは野原に逃がし、電車に乗ってどこかに向かうところで映画は終わる。この先、彼はどこに行くのか、どんな生活が待っているのか。

この主人公の姿は、まさに近未来の私かもしれない。

自分の腕一つ、体一つが頼りのフリーランスという生き方は気に入っているが、常に、いつまで世の中に求められるのか、求められなくなったときにどうするかは考えてきた。

現役で働きながら、何か別の専門をつけようと勉強をしたこともあるし、フリーライターだけでなく、編集プロダクションとして大きな仕事をどんどんとっていこうかと考えたこともあった。

でも、結局、地道に目の前の仕事をこつこつとこなしていけば、自然と道は拓けていく、と結論づけ、考えることを放棄してしまった。

尊敬する国際通訳者の長井鞠子さんに、「引き際を考えたことはありますか」と聞いたとき、長井さんは「それはマーケットが決める」と答えた。「あなたの通訳、もう古いわよ」とお客様から言われたときが引き際だと。なるほど、と思ったし、かっこいいとも思った。「人生100年時代といわれ、これからはデュアルキャリアとかリスキリングだとかいわれるが、何か他のスキルを身につけようとしたことは?」と聞いたら「私は大学を出てすぐに同時通訳者になってほかの仕事を知らないから通訳しかできない。この先もずっと通訳以外のことをやるつもりはない」と。これも潔く、かっこいいと思った。

が、それが自分にもあてはまるかというと別問題だ。長井さんは、すごい努力をして「国際通訳といったら長井鞠子しかいない」といわれるほどの地位を築いてきたからこそ、「通訳しかやらない」と言い切れるのだ。

それほどの才能も実力もない私は、あれもこれも手を出して、じたばたするしかない。

さて、あのイリュージョニストはどうなっただろうか。同じ手品ばかりではお客さんも飽きてしまう、何か新しい要素を入れようと、研究をしてきただろうか。若手を育てようとしてもよかったのかもしれない。ジャグラーとか軽業師とか、他の分野の人とコラボレーションをして新種のショーを企画してもよかったのかもしれない。今なら、手品の小道具をネットで通販したり、ネットで手品講習をして小銭を稼いだりもできるかもしれない。旅の間に一度頭をリフレッシュさせて、また新しい道を歩み始めてもいいかもしれない。あるいは旅先ですてきな女性と知り合って、ラブラブな余生を送るとか?

少なくとも、切ない結末にだけはしないでほしい。